そういえばこんなこともあった。鼻にほっそい綿棒入れたり。

寂しげな秋の足音が近づく中、私はなぜか病院の待合室にある、素っ気の無い長椅子に座っていたのだった。周りを見渡すと、どことなく物憂げな雰囲気を漂わせた老人たちが自分の番を待っている。そういえば私も自分の番を待っているのだった。病院の独特な匂いがする。あまりキョロキョロと見渡していてもよろしくないと思い、持ってきた文庫を読みながら番を待つことにした。森見登美彦の『夜は短し、歩けよ乙女』である。黒髪の乙女の可愛らしい口調と奔放な行動に心が囚われていくのを感じつつあったとき、名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。すぐ目の前にナースが立っており、もう一度自分の名前を呼んでいる。慌てて文庫本を閉じ、名乗り、部屋の奥へと入っていく。老人たちの視線を感じる。
部屋の奥には女医がいた。やった。女医だ。私は勝利を得た気になり、少し浮かれた心地で丸椅子に腰を下ろす。女医の質問は的確であり、義務的だ。私も彼女に応えなければならない。「昨日熱を測った時は37度6分、今朝は少し下がりましたが、頭痛と倦怠感があります。折りしも今新型の『ういるす』が流行っているとのことで、万が一のことを考え、来院した次第です」「舌を出してください」女医はうなずきながら、私に舌を出すことを要求してきた。私は応えなければならない。「もう・・・でないよぉ・・・」というところまで舌を出すや否や、女医は金属のヘラのようなものを突っ込んできたのだった。突っ込む。女医が。私に!服をめくりあげ、喉に触れ、機械的でも感情的でもない丁度良い柔らかさの声で「風邪ですね」と宣告した。判決が言い渡されたのだ。
「でもまぁ、十五分くらいで結果が出ますから、検査してみましょう」そういいながら彼女は、ナースに指示を出す。今度はナースが私の相手だ。私は彼女にも応えなければならない。ナースは手に、日常よく眼にするものを持っていた。だがそれは私が知っているものとは少し形状が違うように思えた。長いのだ。私が知っている綿棒よりも、それははるかに長く、細いように思えた。なぜそんなに長いのか。それにその綿棒で全てがわかるというのだろうか。突然の綿棒との対峙に戸惑っていると、ナースは私に言った。「楽にしていてくださいね・・・口で息を吸うように・・・」私は、従うより他なかったのだ。なぜなら、それこそが重大な儀式であり、そのために私は来たのだから。だが本当のことをいうと、この方法は知らなかったのだ。本当だ。知っていれば心構えのひとつでもしてこれたというものだ。しかし綿棒はもうすぐ目の前だ。ええい、ままよ。と眼を閉じ、私はナースに身をまかせた。
それからのことを何と説明したらよいものか。よもやこの年齢になってあんな行為を実体験するとは思ってもいなかった。そういった点では貴重なのかもしれない。私とナースと女医だけの秘密だ。どんな顔をしていれば良かったのかもわからない。きっとナースは、あれをする度に数々の表情を堪能してきたのだろう。彼女こそが真の勝利者だったのだ。私は単なる通過点にすぎない。待合室では番を待っている人がまだ大勢いる。彼らも通過点にすぎない。女医は舌を出させ、ナースは幾多もの綿棒を積み上げるのだ。
名前が呼ばれた。私は文庫本を閉じ、出口へと向かった。肌寒い。いつもこの時期はなぜか病院の待合室にいかなくちゃいけない気がする。二千円取られた。